昭和49年02月23日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方の事を神、神と言うが、此方ばかりではない。此処へ参っておる人々がみな神の氏子じゃ。生神とは、此処に神が生まれると言う事で、此方がおかげの受け始である。皆んなもその通りにおかげが受けられるぞ。」

 皆が生神への道を歩いて行けば、皆が神様の氏子だから神になる事が出けると。神へ向かっての、言わば精進と言う事はどう云う事なのかと。金光様の信心は何処までも家業の行と仰せられるのですから、家業の行の中にそういう信心の稽古がなされる。昨日あの指出の久保山さん毎朝ああして御祈念に参って見えます。最近はあの娘さんも一緒にお参りになる。お母さんがご飯の用意があるから、娘は御祈念を頂いてすぐ帰る。自分は最後までおって、お取次ぎを頂いて帰ると云う様な、まあ毎日を繰り返しておられる。
 最近お昼参りをさせて頂く様になって、娘がこう言う風に申します。お参りをさせて頂くとね、何時も心の中からそのお仕事をしよっても、あの金光様が出て来ると。金光様有り難う御座います、金光様有り難う御座いますと云う物が出て来るけれども。一日お参りをせんと、お参りをせん時にはこの金光様が出て来ない。そして仕事が何とはなしにチグハグ。とにかくお参りをさせて頂いてね、今あのお裁縫ずっと他所のモンば見よんなさる。それにも不思議にお参りをさせて頂いて。 
心から金光様有り難う御座います、有り難う御座いますと言う様な、まっ言うなら一針一針に金光様を、まあ縫い込めて行く様にしておかげを頂くと、もう思い掛けなく仕事が順調に進んでおるのに驚く。惟がおかげと言うとじゃろうねお母さん、と言うて申しますと云うお届けがありました。私はその生神への道というのは、そういう精進だと思うですね。そこへ生神生神金光大神様が唱えられる所にはですね。
 言うならば心が穏やかである。金光大神様唱えながらの、言うならば御用であるならば、一日を締めくくって見て、とにかく仕事がはかいっておるのに驚くという、そういう体験がです愈々生神への道を進ませて貰、精進させて貰わなければられないと言う事になって来なければ。生神へ唯人間は神の氏子じゃから、誰でも生神になれるんだけれども、そういう精進をした者の上に、私ははあ惟が生神の境地であろうかとかね、そう云う物が段々感じれれる様になって来ると思うんです。ね。
 まあ惟は初歩的な生神へ向かう精進の、まっ姿勢だと思いますね。金光様が日に何回出るか。心の中に何をさせて頂いておっても金光様金光様ね。そこからです本当にはあ今日は思った以上にはかが行ったとはかが行ったと。何とはなしに素晴らしいタイミングの中に一日を終わらせて頂いたと。仕事その事は大した事はないだろうけれども確かに、一日を振り返って見るとはかが行っておる。
 まあなら今の久保山さんで言うならばです。何かお参りをしないでおる時には、心の中に金光様がこう遠のいておられる。お裁縫しておっても、もうとにかく立ち上がらんならん様な事が、用事が次々と起きて来る。まあそう云う様なお繰り合わせもあるだろう。所が朝から心に金光様を頂いて、とにかく心から自ずと金光様が出て来る様なおかげを頂いておると。ね。もうそれこそ言うならば落ち着いてゆっくりとね、お裁縫がまあ言わば出ける訳でしょう。
 だからこそなら一日を締めくって見て、はあ今日はもう思い掛けなくはかいったと。まあ言うならばそう言う事は言われよりませんけれども、縫い直さなけりゃならん様な所が出ける様な事がなくて。スムーズにまっ上手に綺麗に出来あがると言う様なお繰り合わせを頂いておられるのであろうと思うです。ね。そう言う私は信心生活の中にです。ね。神様のお働きをそこに体験させて頂きながら、自分の心が神様へ向かうて行く。是が私は初歩の生神への精進の姿だとこう思う。
 何か生神と言やそれこそ荒修行の一つもしたり、ね、または仙人の様な修行をしたり、すると言う事が神になる。そういう道ではないと思う。昨日の朝の御理解の中に、私はある俳優の方の、ああ名前を忘れとったから言わなかった。あれはあの伊藤雄之助という俳優がおりますでしょう。ね、顔は馬ん顔んごと長い。それは、馬ん顔んごたる面しとる。目なんかはこう三角のごたる、なら意地の悪そうな目をしておる。鼻口元は何とはなしに嫌らーーしい感じがする。
 だからそういう、まあ言うなら役に付けられる訳ですけれども。その演技力はまた抜群だ。信心でか何かでしょうね。素晴らしい、その演技力を持っておる。あれがもし俳優でなかったならね、あんまり誰からでも相手にされない顔ですねあの面は。あんまり人に、その好かれない面だと思うですね。私はそれを自分自身の心と思うた。本当に私の心こそ、ね、それこそ馬の面のごと。馬と言う事は卑しい心と仰るが、もう卑しい心で一杯。何処とはなし意地が悪い。
 いや鼻元口元ん所からこう何とはなしに下品な、下作な品がない。自分と云う物を愈々見極めると言う事は、私はそう言う事になって来なければいけないと思うんです。鏡の前にはニコやかとしての顔を、例えば作って鏡の前へ出ますから。ね、何とはなしにニコやかに映ってますけれども、その心たるや本気で思わせて頂くと、自分の心の中にです。意地の悪い心がないかと言うとある。下品な心が無いかと言うとある。ね。そういう例えば私。私は金光大神への道と言うか、氏神への道と言うのは。
 先ずは自分自身が屑の子我の自覚が出けた所から始ると思うです。今の石浦指出の久保山さんじゃないけれどもです。信心の元初歩の所はです。お参りをするしないと云う事によって、お参りした日お参りしない日がハッキリして来ると云う所。そして心から金光様が出ると云う事は有り難い。親子で話しとっても、やっぱり信心の事ばかり。家族で話しとっても、今日の御理解の話ばかり。ね。
 そして日々のそういう精進が、日々の上に現れて来る体験の上にも、信心のある者とない者。参った日と参らない日の、言わば違いを心の中にこう実感させてもらう。今日私今日の事を頂いたら、一番初めに御神戒の所を開いた。御神訓あのこの教典ね。御神戒の所の、あの神と云う字を頂いた神と。それはどう云う事かと言うと、こうカタカタのネを書いて申すという字を書いて神とあるね。言うならば寝ながら神様と云う様な感じだった。
 言うなら楽をしながら生神様へ成れるはずは無いって、人間は神の氏子であっても。楽をしながら生神様へ成れるはずは無い。ね。いやそれも私達は生神様にならんでん、もう自分のこの願いがいっちょ二つ叶えや、もうそれで良かと言う人達もありましょう。ね。けれども、段々教えを頂かせて頂くと、ね、皆んなも此の様なおかげが受けられると仰せられる、そういうおかげを受けた。
 いやそう云うおかげを受けたい、受けて行くと云う事が此の世に人間として、此の世に性を受けた生き甲斐であると云う事が分かって来る。どれ程自分の心が清められて、どれだけ自分の心が高められたかと云う所に、その一生のその人の生き甲斐と云う物が感じられる様になって来る。生神様へ向かっては、何処までそれを高めて行くかと。勿論その心の状態と云う物は、言わば、御霊の世界に行っても、御霊の世界で、矢張り生神を目指して、魂を磨いて行く、精進の御霊と言う事になって来る
 。それが素晴らしい。だから問題は本当に生神を目指すという、信心の焦点と言う物を、間違えずにそこに出られる信心を、身に付けなきゃいけません。この世じゃ出けんとこはあの世ででも、それを精進して行くという精神。信心とは結局は本心の玉を磨くものであり、魂を清めて行く事なのだ。そしてその魂たるや、自分自身と言う物が、段々解って来れば来る程にです。唯おかげを頂いて日々お繰り合わせの中にあって有り難い、有り難いという信心を進めて行っておる内にです、本当に有り難いのだけれども。
 昨日吉井の熊谷さんがもう本当に毎日、毎日が有り難うして有り難うして答えん。もう朝から晩まで有り難い。所が昨日おととい。御理解を頂いてフッと気付かせて頂いたらもう、今度は反対に自分が恥ずかしゅうして、恥ずかしゅうして、親先生の前にも出られない様な心の状態のある事に気が付いた。ね。そして昨日の御理解である。今の言う伊藤雄之助の御理解。ね、そう言う例えば見苦しい、卑しい汚い私ですら、神様は此の様にしておかげを下さってあると言う事が、今度はまた一段と有り難うなった。
 私の様な者だから、生神というのは、生神へ自分の心が向かうという事は、自分自身が愈々深く広く分からせて貰うて伊藤雄之にね、伊藤雄之助に対して、大変相済まん事ですけれどもね。ね。そう言う自分を良うも、主人は自分を家内と言うてくれ、家内は自分を主人として立ててくれる。親は子供を子供は親をです、自分の様な者を、良うもと言う事になって来る時に、その有り難さと言う物は、愈々深い広いものになって来る。その有り難い広い、その中に生神を見る。
 はあ是が生神のそれは瞬間的ではあっても、時間は短くってもです。はあこう言う有り難い心を、生神の境地と言うのであろうか。こう言う心を四六時中持たせて頂く事の為の、精進が金光教の信心ね、ある方が、ある学者の方が言うておられます。金光教は生神への道だと。信者の全てが生神を目指す道だと言う風に、言っておられます。確かにそうです。そこで私共が色々と、言うならば、工夫をしたり演出をしてからでも、自分の心の状態が、有り難い方へ向かうて行く。
 言わば演出をしたり、または工夫をしたりしなければなりません。昨日は午後から二つの式年祭がありました。久留米の井上さんと、それから福岡の古屋さんの所。二つ共式年祭、三十年の式年。してから、井上さん所は御主人が亡くなられて五十日になりますから五十日祭。本当に帰幽祭もしなかったから帰幽祭。それから合ひ祭、五十日祭と三つを合わせた、大変な難しいお祭りでした。
 惟はねもう本当にこちらの力が出ければそうでもないのでしょうけれどおも、ああいう特に御霊様関係の、しかも生々しい御霊様をこう扱わせて頂くという、もう大変やっぱ骨が折れるんです。だからもうその度にお風呂に入ったり、いわゆる演出をする訳ですね。着物を着替えて、もういわゆる自分の心の状態をね、更な心にならせて頂く為に、まあ色んな演出を試みる訳。一時からの霊祭は勿論私が祭主ですけれども。副祭主が若先生。それから詞取が上野先生。それから賛者が末永先生。ですから私はそれは全部午後からのお祭りの時には替えた。
 勿論祭主は私ですけども、前に座っておる副祭主を西岡先生。詞取を直子。それから賛者を幹三郎いう風にもう全部替えた。何か新たな気分でねあれはやっぱ演出ですよ、そういう工夫がいるです。ね。自分の心の中に疲れが出たり。自分の心が悔やみ心ばっか出たり。ね、する時にはですね、矢張り演出を試みなきゃいけません。ただ神様にすがっとるじゃいけません。ね。
 言うならば水の一つも掛かって見るとか。何とかそこに工夫をしなければいけません。そこからね、新たな気分が生まれて来る。その新たな気分が、神様にまたスーッとこう、通うて行く様な心の状態が頂かれる。まあ二つとも大変有り難いおかげを頂きました。その中に私は、終わってお話をさせて頂いた事ですけれども。あの私は御神眼に、三味線の天神の無い所を頂いた一番上のこう曲がってるでしょう竿の上に。あれをあそこの所を天神と呼ぶんです。天神があって、竿があっ、胴があるんです。
 その天神のない三味線を頂いた。それでは良いなら音色が出るはずはありません。そこで、私はその御霊の事に付いて。五十日祭を受けられる御霊の事に付いてです。是からまあ五十日後には百日祭がある。ね、だからその百日祭までに、一つ奥さん貴方が一つ本気で御霊の為に修行しなけりゃならない。いや、御霊の為だけではない、自分の為にも修行させて貰わなきゃいけない。ね。私が頂きますと御神前に出らせて頂いたら、普通数字を数える時に、一、二、三、四と、こう言うでしょう。
 それをあの二、三、と頂いた。一を無くして、二。今日のお祭りはそう云う様なお祭りであった。言うならば帰幽祭をもうしておらんね、所謂一番初めのお祭りをしてない。それで帰幽祭からね、合ひ祭から五十日祭を一つのお祭りに一つにせなならん。それはもう心使う事、もう柏手一つにも心を使わんならんというんです。ただ帰幽祭の時には偲び手を使わんならん。五十日祭の時にはもう少し音を立てて良いと云う様に、もうお供え物一つひとつの上にも、是は帰幽祭。
 是はまあそういう、まあ分かりやすく言うならです。そういう心を使うてのお祭りでした。同じに御霊様御自身が突然のお国替えでしたから、ね。例えて申しますとお取次ぎも頂かずにお願いもせずに、そしてこういう例えば結果に、まあ言うならば困った結果になった。其処ん所だけをです困った困りましたからどうぞお願いしますよではいけないと。ね。一つの問題難儀な問題と云う時には、こげな事になったからどうぞお願いしますだけじゃいかんですね。
 そう云う事になって来たお粗末御無礼。言うならば天神と言うのは、天地の親神様の意味だろうと思う。天地の親神様のお許しも受けずして、自分勝手な事をして、此処で難儀な問題が出けておるのであるから、此処の所のお詫びを先ずしなければいけない。だから二、三、四になって来る。ね。だからその是から五十日間の間をです。例えばその御霊に対するお礼をお詫びをしっかりさせて貰わにゃいけん。ね。神様へのお願いもせずに、そういう結果になったと云う事に対するお詫び。
 その五十日のお詫びが叶うた時に、恐らく御霊の贈り名も頂く事であろうとまっ言って話した。その事をお届けを終わったら頂いたのが、あのその亡くなられた御霊様が非常に、あの陶器ば自分で焼くのが好きなんです。ほんでお抹茶茶碗を自分で焼いてから、もう2~3年前でしたかお供えなさっておられました。その箱書きに大丈夫という茶碗名が付いた。茶碗にも良い物になると名が付いておられるね。
 もうそれはもう投げたっちゃ割れんごたる、もうそのまあ言うなら大きな丼ですそれを抹茶碗で作っておられる。ですからと云う様なお知らせを頂いたから、貴方が五十日なら五十、後まあ百日祭まではそう云う精進をなさったらです、御霊様も助かられる。言うなら大丈夫と神様が言うて下さった様な気がするよと言うて話した事でしたけれども。ね。私は生神への、私共は道を精進させて頂く課程においてです。ね、
 神様のお許しも頂かずに、そして結果がね、困った結果になったと言った様な時に、ただお願うておかげを頂いて行くというだけではなくて、是はもう日々がそうでなからなければならない。日々が例えばお礼を申し上げる。そしてね一日を振り返って見て、あれもお粗末であったろう、御無礼であったろうという、そのお粗末御無礼の所を、お詫びをして。そして何とはなしにお詫びが叶うたと云う様な一日、締めくくりをしながら、生神への道へ一歩一歩近づいて行くと云う精進。ね、
 間違ったまんまどんどん進んだ所で、それは大きな言わばミスになってしまいましょう。ね。一つ皆さんがです。本当にこの世に性を受けたと云う事は、ね。本気で自分の魂の清まりの事の為に、この世に性を受けたんだ。それを教祖のお言葉を借りると、皆んなが生神の、ね、素養と云う物を備えて生まれて来ておるから、それを生神足らしめる為に、この世に性を受けて来たんだと言う様な事がです、段々分かって来る。
 それを一番初め、司法的な所の、なら久保山さんの、お嬢さんじゃないですけれどもです。ね、日々のお参りの中から、金光大神様を唱えさせて頂く。その事が、どの位生活に潤いをもたらすか。又どの位素晴らしい、おかげになって現れて来るか。そういう体験を、もうさせて頂きながら、日々をです。ね、それこそ伊藤雄之助の昨日の御理解じゃないですけれども、自分自身と云う物が、信心によって、愈々解って来る。
 解って来る所からです、自分の様な者、私の様な屑の子に対してでも神様が此の様なおかげを下さるという有り難さと云う物が、広く深くなって来る。その広い深い言うならば有り難さをもです、日々を締めくくり振り返って見ると、そこもお粗末此処も御無礼。良い音色が出らん時には自分が苦しい時には、ね、自分が情けない時にはです。言うならば良い音色が出ていない事のですから。ね、
 本気で天地の親神様の言うならば、おかげをです。金光大神のお取次ぎによって頂いて、詫びる所を詫びる、礼を言う所は礼を言うて、願う所を願うて行くと言う様な生き方。言うなら、目の詰まった信心とは、今日私が申しました様な事を目の詰まった信心と言うのではなかろうかと、こう思います。そして自分の心が生神へ向かって、勿論この世で生神になれる様な体得、私共が受けれるとも思われませんけれども。信心とはそんなものだという生き方をです。
 私共の心の中に頂き込んでおけば、んなら魂の世界に入っても、矢張りその精進を怠らない、言うなら御霊としておかげを頂いて行く事が出来る。ね、そういうおかげを頂いて行く事になる時にです。まあ仏教的に言うならば、またこの苦しい世の中に生まれ変わって来んで済むおかげ。ね、何時何時までも生神への道を精進して行けれる御霊として、おかげが頂いて行ける。
 仏教的に言うとにかく、それこそ何千年、何万年かかってか知らんけども、人間に生まれ此処に出て来たと云う事は大変なお手間が掛かっておる事です、天地の親神様の。もう人間として、此の世に性を受けたと云う事は、もう大変な事なの。ね、ですから此の世に人間として生まれて来たという、その意義がですね、魂を清める事の為に、この世に出て来たんだと云う事を分かると云う事が信心だ。その話を私がそこの信者控え室で、日田の綾部さんにお話をした時でしたよ。
 もう何年か前でしたが。そのあの喫煙室ですね、信者控え室の、閉まっとったとが、バーンと部屋中が、あの部屋中に響く渡る様な大きなお勇みがありましたよ。綾部さん此の世には魂ば清まりげ来とるとですよ。清め清めると云う事ば本当に思うとかんとです。また私だんそれこそ苦しい、虫に生まれて来るやら、猫に生まれて来るやら分からん様な事を、また何千年も何万年も続けなきゃならない。人間に生まれて来たと云う事は、そういう素晴らしい事なんだけれども。
 それを気付かずに信心のしの字も知らんで果てて行く人達の、言うならば御霊の世界での姿と云う物をです。私共は想像しただけでも、是は本気で言うなら真の信心を、所謂真の信心とは和賀心が神に向かう、生神へ向かうて行けるという、そういう信心を様々な問題を通して身に付けて行く、その基本を作っておくと云う事。だから御霊の中に御霊の世界に入っても、矢張りその精進を続けて行くから、もう御霊ながらに言わばね、神様としての言うならお取り扱いを受ける。
 死したる後神に奉られ、神になる事を楽しみに信心せよと、教祖は仰る。ね。その楽しみになるという信心をです。まあ今日は大体具体的にですよね。まあ言うなら水も漏らさん様な生き方という言うならば、そういう今日はお話を聞いて頂いた訳ですけれども。はらあちょいと、なら金光様の信心っちゃ大事と言わずに、それば本気でそう云う気になるとです。それが楽しゅうなって来ると思うんですよね。
   どうぞ。